out of control  

  


   23

 どこか遠くで、懐かしい唄を聴いていた。
 もう…長く忘れていた。俺の幸せを願って、俺の迎える夜がいつでも安らかであることを祈って……母が唄ってくれていた子守唄だ。
 あれはいくつの時だったのか、父もニアルチもいなくて淋しくて泣いた夜、セリノス王妃のリリアーナ様が謡って教えてくれた。
 俺は鷺じゃない。だからどうしても上手く唄えなかったが、リリアーナ様も、ラフィエルも、リーリアも……みんな根気良く教えてくれた。
 リュシオンが教えてくれるとなぜか今日の終わりに安らかに眠る唄じゃなくて、明日もがんばるぞみたいな雰囲気になるのが不思議だったが。
 鷺の民にとっては、いろんなことが「唄」そのものだった。
 すべての感情、すべての想い……。
 俺だけじゃない。本当は誰の中にもたくさんの唄があるのだと教えてくれた。
 それはうれしいとき、かなしいとき、すべてを唄う鷺だからこそ知っていたことなのかも知れない。
 ぼんやりと見下ろした先に、少ないかがり火に照らされたデイン城がある。見回りの兵もいない。まるですべての命が死に絶えたように静まり返っているのは、城にいるすべての者が眠ったからだ。
 空には月が見える。大きな星も。
 俺の目にこれだけ見えるってことは、今夜は晴れてるはずだ。
 それなのに薄い氷のような粉雪がちらちら漂って、俺に触れた。
 風で流れてきたんだな……。方向から考えて、パルメニーの方か。もしかしたらリュシオンも今、この雪を見てるかも知れないと思ったら少し笑いたくなった。
 寒さに強い分、凍える心配がないからだろうな。あいつは雪が好きだから、ガキのころは、セリノスに降った時はいつもはしゃいで飛んで……。

「つ……ッ」

 本当に笑ったら痛みで身体が引きつって、俺は一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。
 あ…そうか。ティバーンにばれないように城を抜け出したかったんだ。でも普通にしたら絶対あとをつけられるだろうから、薬で眠らせようと思って……。
 なんだ? 喉が痛い。それにじくじくと、身体の内側から鈍くて重い痛みが続いて……。

「!」

 流れた血が脚を伝ったのを感じる前にその理由を思い出して、俺は片手でゆっくりと口元を覆った。
 薬を飲ませて寝かせさえすれば、それで朝まで起きなかったはずだ。それなのにどうして俺はあんな真似を…!?
 やっちまったものは仕方がない。もう取り返しはつかないからな。
 あぁでも、窓を開けっぱなしで出てきたのは失敗だったかも知れない。
 閉めてくれば良かった。これじゃまるで追いかけられたいみたいじゃないか?
 それに、こんなに寒いのにほとんど裸にしたまま放り出してきたから、風邪を引くかも知れない。
 数秒迷ったが、俺はそのままネヴァサを後にした。
 ティバーンなんか、風邪を引けばいいんだ。そうすれば寝込んで動けなくなる。
 いつも過ぎるぐらい丈夫なんだから、たまには寝込む方の辛さも味わえばいいさ。
 それに、そうなったらあいつの周りはお節介が多いから、きっと見張られてどこにも行けなくなる。リュシオンだって世話になったあいつを放り出して追いかけて来るはずはないからな。
 ………その方が良い。
 町の中の明かりも少なかった。歓楽街でさえ、暗く見える。
 戦争で荒れたのはデインだけじゃない。海に近い町じゃ、本当だったら明かり用には使わない魚の油まで燃やしてるところがあった。
 あの渓谷で撒かれた油だってそうだ。いろんな油をごちゃまぜにして流したから匂いも酷いが、あれじゃ本当に火を放っても狙い通りに燃えたかどうか……。
 でも、こんなことになるならちゃんと燃やせばよかったんだ。そうすればあそこに残っていた者は少なくとも動かなかった。こんなことにならなかった。
 凄惨な現場を見たあと、片付ける者の心はそりゃあ重かっただろうが。
 駄目だ。また頭がぼんやりしてきた。思考がばらばらでどうもまとまらない。
 痛むこめかみを押さえてゆるくかぶりを振ると、俺は腕輪に力を込めて化身した。
 行き先は決まってる。三年…いや、もう四年前になるか。
 デインとクリミアの大戦の時にさらわれたリアーネを助けに行った、あのグリトネアの塔だ。
 きっかけは、問題の渓谷へ偵察に向かう時、立ち寄ったあの薬師の村だった。
 ずっと引っかかることがあったんだが、やっとそれがなんなのか思い出したんだ。正確には、ティバーンに飲ませるお茶に入れた時の匂いでな。
 ニンゲンがラグズに使うために開発した薬はいくつか知ってる。タチの悪いものはいくつかあるが、その中でもあれはかなりのものだ。
 もちろん、べつに死ぬような毒じゃないぞ。だったらティバーンには飲ませなかった。
 そういう意味じゃなくて、効果のことだ。
 意識ははっきりしてるのに、手足の自由は利かない。初めて飲まされた時は恐ろしかったさ。
 ティバーンにはその薬にさらに眠り薬も仕込んだがね。こっちは遅れても効果が出てよかった。
 体格が良い分、多めに飲ませたつもりだったのになかなか寝なくて焦ったけどな。
 まったく、さっさと寝ないからあんなことまでする羽目になったんだ。余計なオマケもいいとこだぜ。
 ティバーンは…嫌がってたよな。
 なんだか夢の中にいたような時間だったけど、これだけははっきり覚えてる。
 俺が応じない時はあんなにしつこかった癖に、結局いらないのか。
 そう思ったらやけに癇に障ったんだ。
 思い通りになんて誰がなってやるかって気持ちでやったはいいが、結局痛い目を見てるのは俺だけなんだから間抜けにもほどがある。
 大体、入る場所じゃないだろ。なのに、無理やりねじ込んだ。
 自分でやってもこれだけ痛いのに、奴隷にされた連中はどれほど辛かったか……。きっと、こんな痛みじゃあいつらの受けた辛さの欠片だってわからないだろう。
 ティバーンを受け入れた瞬間の引き裂かれるような痛みと衝撃を思い出して、俺は飛びながらぶるりと身を竦めた。
 しかし、調合薬を使ったのは失敗だったな。もったいなかった。
 そう思ったんだが、行為の最中に死んだ者もいたし、あとから死んだ者もいた。
 二度とここが使い物にならなくなって殺された者も。
 男が躰を使われるってのはそういうことだ。
 ティバーンがそんなことを知っていたとは思えないが、あのお人好しのことだ。俺が怪我をしないように気を遣ったんだろうが、この通りの有様じゃあな…。どうせ怪我をするなら適当な油で済ませて後から塗ればよかった。それなら一回分で済んだのに。
 傷はまだ塞がる様子がない。
 下穿きを通り越してブーツの中にまで血が流れた感触があるし、その血でべったりと布が肌に張り付いているのもわかる。
 出血も止まっていないようだし、どこかで降りて手当てをするべきなんだろうが、もしものことを考えるとそれはできない。
 月の出ている方向と時間を頼りに飛んでいるだけで、自分が今どこを飛んでいるのかは見えないんだ。血の匂いをさせたまま下手なところに降りて、それこそ獣に襲われでもしたら面倒だし、なによりティバーンはともかくほかの連中に俺が抜け出したって勘付かれたら困るからな。
 今は少しでも遠くまで飛ばなきゃならない。
 傷は痛むし、気分は焦るし、自分でも今の俺は熱に浮かされた病人のようだった。
 人ってのはあんまり痛かったらそのことしか考えられなくなるもんだ。結局俺はそのまま夜通し飛んで、いつの間にか夜が明けて…昇ったはずの太陽がまた沈むまで、結局一度も降りなかった。
 我ながら、大した体力だ。鷹の民じゃあるまいし、ニアルチ辺りに知られたらどやされるだけじゃ済まないな。
 王たる御身の翼をなんと心得ておるのですか! ――なんてな。
 もう王じゃないってのに……俺の翼に、価値なんてあるか。
 どうせそう言ったところで、あいつは聞き入れやしないだろうが。

「!」

 いきなり、下から吹き上げた強い風に煽られた。
 風そのものよりもいきなり意識の中に飛び込んできた強烈な匂いに後頭部を殴られたような衝撃を覚えて、まるで瀕死の鳥のようにばさばさともがきながら落ちる。
 くそ、化身も解けたか。
 固い地面に叩きつけられる前に姿勢は立て直したが、したたかに打ちつけた腰の痛みにしばらく俺は立つことができなかった。
 なにより、限界を超えて飛び続けてきた翼が痛んだ。正確には翼の根元…だな。腫れたようで、そこにこもった熱が背中全体に嫌な広がり方をしてやがる。
 いや、今はそんなことどうでも良い。
 月の位置は…って、そうだ。雲が出ていてはっきりとはわからないから、太陽が沈む前に方向を確認したんだったな。
 方向は合ってるはずだ。それに、この匂いは……。

「い…ッ」

 慌てて立ち上がろうとした身体のあちこちに痛みが走る。
 翼も痛いが、腰も痛いし脚も痛い。もちろん頭もだ。
 疲れきった指が嫌な汗で湿り、過負荷に抗議するように心臓が震えた。
 一つ息をついて光の術符を取り出すと、魔力を込めて辺りを照らす。
 ぼんやりしていても方向は見失わなかったらしい。………グリトネアだ。
 ここにいたなりそこないたちはティバーンやアイクがほぼ全員殺したはずだ。だが、まだ匂いや気配は残ってるんだな。
 遺体もなるべくは弔ったんだが、ここで流れた血の量を考えれば仕方がないのかも知れない。
 ここは、ラグズのなりそこないを作り出していたおぞましい実験施設だ。四年前、地下にあった施設を見て、俺は倒れそうになった。
 鴉王になってからいろんな凄惨な場を見てきたが、それでもあれは特別だ。俺だけじゃない。アイクも青ざめて立ち尽くしたし、ライは膝から崩れかけたところをナーシルに支えられていた。俺はティバーンに腕をつかまれて倒れこそしなかったが、しばらくは背けた目も顔も戻せずにいた。
 それでもなんとか踏ん張れたのは、蠢く肉の塊のようになったあいつらの中に、鴉の気配があったからだ。
 無残な肉塊にされたのは、奴隷だけじゃない。そこにいたのは、俺の命令でデインに行き、帰れなかった鴉の一人だった。
 あんな姿になったのに、苦労してやっと話したのは俺の無事を喜ぶ言葉で、せめて手を握ってやりたくてもその手が見つからなくて、結局ありきたりな労いしか言ってやれなかったことが今でも悔やまれる。
 あの時は、アイクとティバーンが動いてくれた。
 意識がある者に一人一人声を掛けて、名を訊いて……おまえたちの悔しさは忘れないと。
 これ以上苦しめたくない。決断したのはティバーンだった。
 俺も同じ思いだったが、この期に及んで助ける術はないのかと無駄に詰め込んだ知識を洗い直してたっけな。
 ティバーンの頼みに頷いたアイクがセネリオに命じた。だが、珍しいことにセネリオはもう一度ティバーンに確認を取ってから、炎の魔道を使ってくれたんだ。
 いつまであの炎を見ていたか覚えていない。ただ、ふと気がつくとそばにニアルチと、遠ざけておいたはずだった固い表情のリュシオンと……泣きながら、それでも俺を見上げて微笑むリアーネがいた。
 ヤキが回ったと思ったね。そりゃあんな現場を見たら、腹は立つさ。
 それでも金蔓だったデイン王と敵対することになるとは思いもしなかったな。
 ―――もう、それが遠い昔のように感じていた。ラグズである俺はベオクよりも寿命が長い。その分、過去のことを簡単に忘れたりはしないはずなのに不思議なもんだ。
 闇の中にいっそう黒く浮かび上がる不気味な塔を見上げて、俺はかつて猛り狂った赤竜が守っていた階段を上った。
 脚も萎えてるし、なにより痛みが酷い。本当は飛びたかったんだが、これ以上翼を使うと本格的に痛めちまいそうだったから仕方がない。
 荒れたまま放置された塔内に気配はなかった。それでも光の術符を使って慎重に辺りを見回すと、俺は塔の上階の部屋に入り、机や棚に残された紙片を片っ端から見て回った。
 自分だけが読めれば良いってぐらいの癖のある細い神経質そうな字は、ある研究者のものだ。俺たちラグズにとっては憎悪を込めずにはその名を呼べない男、イズカの……。
 研究者にとって一番大事なのは自分の命じゃない。己の人生を掛けて研究し、発見したその成果だ。必要なものはもう持ち出してるだろうが、俺があの村で見つけた薬は元々、この男が作ったものだった。
 ベオクの薬師の中に、作り方が伝わっていることになる。もしかしたらあの忌まわしいなりそこないの薬もそうなんじゃないか? そう考えたからだった。
 それにしても、神経質なようでいて頭に入れたものに対する扱いは乱雑だな。
 いらいらしながら三つ目の引き出しの鍵を蹴り壊した時だった。
 不意に首筋にちりっと逆立つような感覚を覚えて、俺は戸口を振り返った。
 違う、上か!?
 特に気にかかるもののない紙の束を放り出すと、俺は部屋の陰に隠れるようにして上に続く階段に向かう。
 数段上らないうちに、覚えのある匂いが鼻をついた。
 術符で照らした石段に、粘りのある黒い液体がゆっくりと伝い落ちてくる。
 ………血だ。
 無意識に喉が鳴った。
 古いものじゃない。ついさっき流れたような新しいものだ。
 いくら体調が良くないからって気がつかなかった? この俺が?
 どうせ俺がいることには相手も気づいているだろう。だからあえて気配を殺さず、俺は長い石段を駆け上り、鍵の掛かっていない古い扉を蹴り開けた。

「誰だ!?」

 狭い塔の上で、一人の男が俺を振り返る。
 闇に同化しそうな不吉な気配だ。
 光の術符で照らしているはずなのに、まるでこの男の周囲だけは闇を纏ったように暗い……。

「おまえは、確か火消し……フォルカ…だったな?」
「…………」
「クリミアのフェール伯の手の者だろう? それがなぜここに? その男は……」

 流れた血の量から考えても、もう死体だってのはわかる。
 右手に短剣、左手に事切れた痩せたベオクの髪を掴み、口元を黒い布で覆った長身の男が、感情のない赤い目で俺を見る。
 この男の全身から漂う禍々しい気配は、とてもじゃないが普通のベオクが持てる類のものじゃない。

「おまえが殺したのか?」

 我ながら間の抜けた質問をしたもんだが、フォルカは答えない。ただ荷物のように髪を掴んで引きずり起こしていた死体を投げ捨てると、右手に握っていたスティレットの刃を拭いて腰に戻した。
 仰向けに倒れた男の表情を見ても、相当苦しんだことがわかる。
 ……この男の腕は知ってる。その気になれば、一撃で死なせることができたはずだ。
 それなのにわざわざこんな真似を……。

「拷問……したのか?」

 これも癖だな。転がった死体を検分すると、片手の指先が全て潰れていた。血まみれだが、よくみると白い部分が多い。こいつの着衣はベグニオンの神官のものだ。
 ベグニオンの神官を拷問してまで聞き出したいこと? この男が……いや、違う。

「おまえは、正真正銘の『駒』だ。自分の考えで動くはずがない。それなのにここにいるってのは、またあの道化文官が悪巧みでもしてるってことじゃないのか?」

 答えは返らないのに質問ばかりしてるってのも間抜けだな。
 だが、この男が動いている裏には必ずフェール伯がいる。ベオクの中じゃそこそこ信用できる相手だとは思うが、あんな狸の皮を被った狐のような男に本気で気を許すことはできない。
 そう思って睨みつけながら訊くと、初めてフォルカが俺に向き直った。
 ……違う。階段を下りるつもりなのか?

「鴉王。あんたは、鳥翼王の名代と考えて構わないな?」
「なに?」
「ついてこい」

 死神について行くってのは、なかなか気の利いた冗談だな。
 そう言いたかったが、すれ違った背中を追いかけようと出したつもりの脚が動かなかった。
 まずい。視界が暗くなって傾いだ身体を慌てて壁についた手で支えるが、そのまま崩れそうになって肩からぶつかる。
 くそ、目が回る。それ以上口を開けば吐きそうで震える腕を壁から離せずにいたら、音も立てずにフォルカが戻って来た。
 なにをするつもりだ?
 訊きたくても口を開けない。手に持っていた術符が落ちてゆっくりと光が消え、視界が黒く染まった。
 だが、またすぐに明るくなる。フォルカが近くにあった壁の燭台に炎を灯したからだ。
 意外だな……。なんとなくだが、この男は暗闇でも見えるんだと思っていたが。
 そのまま行くのかと思ったのに、フォルカは俺を見ながら立ったままだ。
 まさか、俺を待ってるのか?

「フォルカ?」

 返事はないが、どうやらそうらしいな。
 じゃあ、この蝋燭も俺に気を遣ったってことか。火消しと呼ばれる暗殺者に気を遣われるなんて妙な気分だ。
 ここまでされて無視はできないな。
 額に滲む冷や汗をごまかしついでに前髪をかき上げると、俺はいつもの表情を作って壁から身を起こした。
 階段を下りて、さっきまで俺が調べていた部屋の前を通り過ぎる。
 めぼしいものはなかったが、もしかしたら先にこいつが調べていたんじゃないか? そう思い当たって聞こうと思ったが、フォルカはなにも言わないだろうな。
 仕事ならなおさらだ。
 さっきの殺しも仕事なんだろうが……そこでふとあることに気がついて、俺は敢えて聞いてみた。

「さっきの男はベグニオンの神官だな?」

 答えは沈黙。見てわかるようなものに対する返事に、金は必要ない。
 そして、その殺しを目撃した俺の始末に掛からないってのは、俺が知っていても都合が悪いわけではないような事情でこいつはここにいる。
 なら、答えは絞られる。

「なにを調べていた?」

 こっちも沈黙だ。
 ただ一階に下りる途中で足を止め、壁に手を当てる。なにかを探っているような手つきだったが、俺の目にはもうほとんど見えない。
 無駄遣いはしたくなかったが、仕方がないか。懐からもう一枚術符を取り出しかけたところでちらりと赤い視線が俺を見たような気がした。
 懐に入れようとした手を止められる。どうするつもりなのか待っていると、また手近な燭台に火をつける。
 俺の視界を確保してから探すのは有難いが、理由を考えたくなるな。
 これがこの男でさえなけりゃ、ただのお人好しだと思うところなんだが。
 そうやってしばらく壁を探っていた指がなにかを見つけたらしい。
 短剣の柄で辺りを叩いた。
 音が違う……? この向こうになにかあるらしい。
 鋭い短剣の切っ先が石の隙間を探り、一箇所、音の違う部分を見つけた。鉄と鉄がぶつかった音だ。器用にその部分の石を外すと、錆びたレバーが現れた。
 折れそうで怖いな。フォルカも同じことを考えたんだろう。
 慎重な手つきで掴み、少しずつ力を込めて押し下げて行く。
 息も漏らさなかったが、相当固そうだな。黒衣に包まれた腕に筋肉の筋が浮かんでいた。
 レバーがもう少し長ければ俺も手伝うところなんだが、これじゃどうしようもないな。
 ガコン、と下まで下がり切ったところで、どこかで大きな音がした。今度はまたフォルカが階段を上る。

「おい、待て。一体さっきからなんなんだ?」

 自分でついて来させておいて、一切説明もしないってのはずいぶんじゃないか?
 だんだん腹が立ってきたぞ。

「おい、返事をしろ」
「……千だ」

 やっぱりそう来たか。俺は深い息をついて胸元に手を入れ、さっき上で見つけて失敬した銀製のペンを投げ渡す。

「三千にはなるだろ。どうしてここに来た?」
「質問の内容が違う」
「一つ千なら三つまでは答えろ」

 ……血が足りないらしいな。本格的に気分が悪い。
 脂汗で首筋に絡む髪を払いながら問いかけると、フォルカはさっきの部屋に入りながら振り返りもせずに言いやがった。

「仕事だ」
「仕事、ね……」

 ふっと笑って、翼に魔力を集める。
 フォルカが肩越しに視線を寄越した瞬間には、その首に腕を回して周囲に風の魔力を張り巡らせていた。

「さすがにこの程度では動じないな。俺は欺くのは好きだが逆は面白くない。答えろ。貴様の主人はなにを命じたんだ?」

 必要とあらば、ここでこいつを殺すことも躊躇わない。
 それは俺の気配からも伝わったはずだが、フォルカはまったく動じることなく抑揚のない声で言った。

「無駄だ。いかな鴉王とて、手負いで俺は殺せん」
「試してみるか?」

 腕に押さえ込んだフォルカから、ざわりとなにかが溢れた気がした。
 全身の毛穴が広がるような錯覚がしたが、なにも起こらない。
 今のは……殺気か?

「あんたのことは主が気に入っている」
「!」

 首筋に、冷たい刃物の感触があった。スティレットの刃先が皮膚に食い込んでいる。
 いつの間に…!
 いくら俺が本調子じゃないとはいえ、こいつ、本当にベオクなのか!?

「なにより、俺も主も鳥翼王と事を構えるつもりはない」
「………いくらあの男が無駄に熱くても、部下一人のためにそこまで話を大きくするかよ」

 馬鹿馬鹿しい。そう思って首に巻きつけていた腕を解くと、フォルカも俺の首筋に突きつけていた短剣を離して言いやがった。
 それも、俺が目を剥くようなことを。

「あんたから鳥翼王の濃い匂いがする。たとえ裸のまま森で眠り込んでも、どんな獣も今のあんたを襲いはしないだろう」
「貴様…!」
「だが、血の匂いは消した方が良い。薬が必要なら分けるが?」
「いくら吹っかけるつもりだ」

 無意識に羽ばたいて距離を取りながら訊くと、にこりともせずにフォルカは言いやがった。懐から一回分の特効薬を取り出しながら。

「三千だ」
「ふざけるな。相場の三倍かよ」
「あんたは相場の十倍で貴族に売りつけていたはずだが」

 ………そんなことまで知ってるのか? 呆れてものも言えない。

「どうするんだ?」
「いらん」

 俺の自由になる金なんかない。キルヴァス城に非常時のための金は隠してあるが、それも新しい国のためのものだ。
 そう思ってそっぽを向いたが、急に目の前に特効薬の小瓶を投げられて俺は慌ててそれを受け止めた。
 金目のものについ手が出るのはもう習性みたいなもんだ。
 
「押し売りか?」
「後払いにしておく」
「ふざけるな。俺はいらないと言ってる」
「あんたが死ぬとセリノスとの国交が面倒になる。仕事のついでだ。なんなら費用はあとで主に請求する」

 なにを言うかと思えば……。

「俺が生きてる方が面倒だと思うがな。第一、こんなものもらわなくても死ぬような怪我はしていない」

 だがまあ、くれるものならいただいておくか。
 もちろん支払いはフェール伯に回すことを約束させて、俺はもらった特効薬を懐に入れた。フォルカはちらりと見たが、それだけだ。
 もらったものをどう使おうと俺の勝手だからな。
 俺が特効薬を受け取ったことに満足したのか、フォルカはまた部屋の中に入ってその辺りに転がっていた手燭に火をつけ、俺に寄越した。
 それでようやく暗かった室内が見渡せる。

「これは、隠し棚か?」

 フォルカが動かした書架の後ろに、ぽっかりと口を空けた棚が見えた。さっきのレバーがここに繋がっていたって事か。道理でこの部屋を探ってもわからなかったはずだ。
 ずいぶん慎重に隠したんだな。ここにあるものがなんなのか、俄然興味が湧く。
 どうやら古い羊皮紙の束みたいだな。いや、それにしては白い気がするが。
 うっかり手燭の蝋を落とすといけない。中を漁るフォルカの肩越しに見ていると、ばさばさとやけに白っぽい羊皮紙をめくったフォルカがやっと俺に向き直る。

「え?」
「主に依頼されたものだが、内容自体はあんたに渡すつもりだったものだ」
「それはフェール伯が?」

 無造作に手渡された白い羊皮紙の束とフォルカを見比べて、俺はしばらく考えた。
 だってそうだろう? これはもしかしたらクリミアにとって大きな利益になる情報かも知れない。
 内容はともかく、少なくともあの男はこの紙の束にこめられた情報の価値を知っているはずだ。
 だが……。

「なんだこれは。白紙か?」
「魔力をこめてみろ。……あんたなら読めるはずだ」

 魔力を?
 そう言えば、ベオクの神官の使う術の一つにそんなものがあったな。各神殿に伝わる門外不出の薬や杖の作り方もそんな方法で守っているはずだ。
 特別なインクを使って書けば、魔力を持った者以外には解読できない。さらに高度なものでは、解呪の呪文を知らない者はどんなに魔力が高くても読むことができないものもあった。
 俺が触れただけでうっすらと字が浮かび上がってきたってことは、複雑な封印はかけてないってことになる。やけに焦って隠したってことか?

「このまま持って帰れば貴様の主の持ち札になったろうに、まあいい。フェール伯が俺に渡すつもりだったってなら、有難くここで読むさ。ただ俺は本職じゃない。魔力を使ってどうこうするのは疲れるんでね。椅子と机を用意しな」

 紙の束をぱらぱら調べながら言うと、フォルカはなにも言わずに執務用らしい机の上のものを勢いよく床にぶちまけ、転がった椅子を置いて俺を見る。
 ……座り心地が悪いな。そう言えばあのイズカはずいぶん痩せた骸骨のような男だったが、恐ろしく姿勢が悪かった。
 研究者ってのは長時間座ることが仕事といっても過言じゃない。もしかしてそういうことに無頓着だからあんなに姿勢が悪くなったんじゃないのか?
 腰が痛むが贅沢は言えん。手燭をフォルカに渡して手元を照らさせ、組みかけた脚を戻して一枚目に魔力を込めると、すぐに字が浮かび上がった。
 これもイズカの字だ。癖が強くて、いかにも神経質そうな……。
 ったく、俺の部下ならクビだな。すぐに判読できんような字で報告書を持ってくるような部下はいらん。
 順番がそれほど入れ替わってないことを確かめてから、俺は二十枚を越える固くて臭い羊皮紙の束に目を通し始めた。
 個体識別…性別不明がやけに多いな。子どもか?
 死亡も多い……クソッ、あの地下にあった実験施設のことか?
 恐らく、これはラグズのなりそこないの実験経過だ。
 死亡もなにも、あんな、人の形を失うようなことをすれば当然のことだろ。
 むかむかする思いで読み進めていて、三分の一に差し掛かった時に俺はあることに気がついて手を止めた。
 ………ちょっと、待て。
 性別不詳の数が多すぎる。それに、頭髪の色や翼の色ってことは、ここに書かれた者は鳥翼族だという意味だ。

「フォルカ……なりそこない実験に使った者についての情報は?」
「机の中にあった。今は主にわたっている。獣牙族が一番多いからガリアに送ることになるだろう」
「………鳥翼族のものも?」
「含まれていた」

 じゃあ、これは……なんだ?
 いやな予感がする。
 翼の色は茶色、灰色……それから、白の項目が一つだけあった。性別、雌……。
 鳥翼族で白い翼を持つ者は限られてる。セリノスの……鷺の王族だけだ。
 鷺の民の王族が失われたのは、二十数年前のあの虐殺とリーリアを除けば、ラフィエルが奴隷商人に捕まった時だけ。それじゃこれは…!?
 浅く乱れた息を堪えられずにこめかみを抑えると、手巾で汗を拭われた。

「気付けは必要か?」
「……いらん」

 こんな男に気を遣われるほど動揺が表に出てしまっているのは情けないが、俺の心境はそれどころじゃなかった。
 間違いない。これは…この記録は、捕まった鷺の民の………。
 何人だ…? 一体、何人の鷺がこんな……。

「実験には…鷺は向かないと……」

 思わず口から出た言葉を飲み込み、もう一度思い出す。
 リアーネを助ける時、俺はベオクの兵に化けてイズカに接触した。独り言の多い男で、あの時もぶつぶつ言ってたんだ。
 鷺の民の世話がどんなに難しいかって……。そうだ。世話は難しい。
 だが、もし…もし………。
 こみ上げてくる吐き気を堪えながら最後まで目を通して、余りの数に本気で俺はしばらく立ち上がることが出来なかった。
 なんだ…? この数は、なんだ?
 日付はない。だが、この羊皮紙そのもののくたびれ具合が年月を物語っている。
 最後が足りない。恐らく、薬の調合についての部分が。

「フォルカ、まだあるはずだろ」
「ここに残っているのはそれだけだ」
「じゃあ、ほかのはどこにあるんだ!?」

 思わず怒鳴ったが、答えが返るはずはない。
 握り締めた羊皮紙が鈍い音を立てる。破き捨てたい衝動をかろうじて堪えて、俺はまとめた羊皮紙をフォルカに押し付けて「すまん」と呟いた。

「貴様の雇い主は俺じゃなかったな……。千払う。先払い以外で受けられないなら、俺の紅玉の耳飾りを預けるから、これをセリノスへ…俺宛に届けて欲しい」
「基本的にどんな理由であれ後払いは断るが、いいだろう。それも外さなくて良い。あんたが国に戻ったころに届ける」

 あぁ、くそ…ッ! ………泣きたい。
 泣けたら少しは楽になるだろうのに、涙が出ない。
 激しい怒りはあった。暴動だけじゃない……。ここで鷺の民が殺されていた。
 それも、俺が知るよりもずっと昔に。
 鷺だけじゃない。鴉も、鷹も、獣牙族も…竜鱗族さえ犠牲になった。
 イズカだけじゃない……。ベグニオンには、クソみたいな学者が大勢いる。
 一人残らず…どいつもこいつも、八つ裂きにしてやりたい。
 泣くよりも怒りの方が強いのに、こみ上げる激情が洗われるのは涙の形になるはずだった。
 泣けない理由はわかってる。
 悔しいからだ。泣いて楽になんかなりたくない。
 唇を噛み締めて細い息をついて、やっと俺は思い出した。
 そう言えばこの男…もしかして、さっき手に掛けていたのは――。

「フォルカ、あの男は……神官じゃないのか?」

 ベグニオンでは、神殿に学者がいる。神官と学者は同じだと言ってもいいぐらいに。

「拷問したのはこの隠し場所を訊くために?」

 フォルカはやっぱりなにも言わない。ただ俺の手に手燭を押し付けて書類をまとめ、ぴったりと腰に沿わせた荷袋に入れる。

「立て」

 答えの代わりに俺を促したフォルカの背を追って立ち上がると、俺はまた部屋を出て石段を降りた。
 どうやら、今度は外に出るつもりらしいな。あとまだ調べていないところは、見回りの兵が使う小屋ぐらいか。
 そう思っていると、案の定だ。フォルカの向かった先は、塔の外にある小屋だった。
 扉の前で足を止めたフォルカを押しのけて小屋の扉に手を掛ける。
 ………なんだ? 風か?
 いきなり手燭の炎が揺れたが、風は感じない。外れそうな取っ手を掴むと、そこからざわりと皮膚へ侵食されるような感触が走った。

「!」

 とっさに扉から離した手を見ても、なにもない。だが、今の感触はなんだ…!?
 無意識に震える指先を呆然と見ながら固まっていると、それを見ていたフォルカが先に扉を開けた。

「あ…!」

 なにかが出てくる。
 そう思って身を固くしたものの、中から漂ってきたのは埃っぽい空気と、汗を吸い込んだ皮の防具の饐えた匂いだけだ。
 だが、うるさいぐらいに自分の鼓動が耳についた。呼吸も浅い。
 なにか…不吉なものがこの中にある。
 それは予感じゃない。確信だった。
 中に入るべきじゃない。だが、このまま調べずに置くこともできない。
 そう思いながらも動けないでいるとフォルカが肩越しに振り向いた。
 らしくないな。この男に限って気遣ってるなんてことはないだろうが、ここでわざわざ俺のことを気に掛ける理由がわからない。

「……俺も、行く」

 かすれた声で言うと、フォルカが先に中に踏み込む。闇に同化する背中に深い息を一つ吐くと、俺も意を決してなんとか足を動かした。
 …………いやな空気だ。
 ぴんと張り詰めた薄い膜が皮膚を覆ってるような、勝手に動悸が起こるような……不吉な空気が冷気といっしょに肌を刺す。
 口元を覆って辺りを見るだけで俺は精一杯だった。あちこちを照らす手燭の頼りない明かりが揺れるのは、俺の手が震えているからだ。
 大きな木の箱に無造作に突っ込まれたまま錆びた槍や剣、それから棚に並んだ防具。どれもベオクの道具だった。
 埃が積もった机の上にあるのは、暇潰し用なんだろう。ボードゲームやカードが散らばり、それと同じように無造作に、俺も良く知る薬の小瓶が数本転がっている。
 獣牙族をおとなしくさせるための薬と、鷹と…鴉用の薬だった。こんな詰所で暇を潰すような、そんな下っ端にまで与えられるほど、この薬は作られていたってわけだ。

「フォルカ?」
「………この下だ」

 興味なさそうにその机を眺めていたフォルカが、急に机を蹴り動かした。大きな音を立てて壁にぶつかり、いくつか棚のものが転がり落ちてくる。外の木が近かったからだろう。小鳥が騒ぐ声も聞こえた。

「ベオクってのはつくづく、地下が好きだな」
「後ろ暗いものほど見えないところに隠したいものらしい」
「あぁ、なるほど。……それもフェール伯が?」

 だんまりってことは、そうなんだろうな。

「なんだ? この札は……封印か? 割れているな」

 現れた地下への入り口を呆れて眺めていると、フォルカがまず上に貼られたまま割れた古びた木製の札を強引に剥がし、取っ手に通されている鉄の棒を引き抜く。それから太い取っ手を掴んだ。
 フォルカのたったそれだけの仕草で、なぜか俺はこの場から逃げ出したくなった。
 こいつの体格は俺とあまり変わらない。それほど力があるわけじゃなさそうだが、苦労する様子もなく、フォルカは鉄で補強された重そうな扉を引き上げた。

「う…あッ」

 取り落とした手燭の炎が消える。
 な…なんだ…!?
 膨らんだ翼が全力で「逃げろ」と俺に訴えていたが、それでも俺は踏みとどまった。
 忘れていないからだ。自分自身が「鴉王」だってことを。
 でも、参った。これじゃなにも見えやしない。
 とにかく落した手燭を拾って、もう一度火をつけなきゃならない。
 そう思って足元を探ろうとした俺の手が掴まれた。驚いて払いのけようと思ったが、その手が意外に暖かくて、もう一度驚いた。
 フォルカの手だ。なんとなくこいつは体温も低そうだと思ってたんだが、ちゃんと暖かいんだな。そんな場違いな感想まで持っちまった。

「え? ……下?」

 なにも言わないフォルカがくいっともう一方の手で階下を指したのが見えた。
 見える? 蝋燭もないのに、一体なんでまた……。
 数瞬してから、俺はやっと気がついた。階段の下がぼんやり光っていることに。
 皮膚がざわめく。血のような赤い光なのに、それだけじゃない。これは…この、赤い光に混じった淡い金色の光は………!
 震える足を踏み出すと、フォルカが俺の腕を掴んだまま階段を降り始めた。べつに俺を支えるつもりじゃないだろう。
 ただ単に、ここで手を離すと俺が転がり落ちて自分を巻き込むとわかっていたからだ。
 俺の翼が逆立つように膨らむ。じっとりと滲んだ汗が冷えてるはずが、それもわからなかった。
 感じるのは、魔力の波動だ。歪み切って、正体さえ知れない……。
 だが、俺にはわかる。この、魔力の正体を。
 そして、ここに立つ者の気配を。

「………あなたも、呼ばれましたか?」
「セフェラン……」

 狭い、石の小部屋。
 あるのは大きな壷と、いくつかのおぞましい器具、それから……床に散らばった夥しい量の羽だ。
 淡い金色を帯びて禍々しい赤に光る陶器の壷を前に、セフェランが立っていた。

「あんたが失踪したって……トパックが……」

 ぼんやりと呟くように言うと、悲しいぐらいに優しく微笑んだセフェランが「失踪したのではありません」と首を横に振って答えた。

「サナキ様の許しは得ています。フォルカもご苦労でした。鴉王を連れてきてくれたこと、あなたの主には礼を伝えなくてはなりません」

 どういうことだ?

「フォルカ?」

 驚いてフォルカを振り返るが、フォルカは返事もせずに距離を取って立っているだけだ。

「鴉王。あなたに会って、『声』が聴こえたのですよ。正確には、もう『声』にさえなっていませんでしたが……。ここにいたのですね」

 なにがだ?
 口に出して問いかけることはできなかった。
 愛おしそうに、優しい仕草で……セフェランが固く口を閉ざされた大きな壷に触れたからだ。

「あの時……確かに多くの同胞が命を奪われました。でも、あの暴動の原因の一つは、この薬を作るためだったのでしょう」

 それ以上、言うな。
 声に出せないまま首を横に振ると、セフェランはいつからここにいたのか、握ったままのリワープの杖をそっと石の壁に立てかけて目を閉じた。

「鷺の血が必要だから」

 今度こそ、俺は膝をついた。ふわりと、あのころと同じ暖かさと柔らかさで、俺の身体が受け止められる。
 多くの鷺の羽が、この床には残されていた。
 空に帰ることもない。大地に受け止められることも……ただ、こんな冷たく暗い、石の小部屋で………。

「呪歌と呼ばれるほどの力を持つのは、今は白鷺だけです。でも、彼らは気がついた。鷺の血の中にそれは眠るのだと。私たちは『勇武』の呪歌を謡いますから。そう考えると、研究者ならここに答えを見つけるでしょうが……」

 絡みついてくる歪な魔力に残る想いが、俺を貫くように響く。
 痛くて、苦しくて、なによりも……。
 目の前で、大切な誰かが奪われる嘆きと、絶望。
 「負」に染まった鷺の魔力が宿る血――。それが、ラグズを狂わせた。

「彼らが愛したあなたが来てくれたのは、女神の最後の導きのような気さえします。ここも、残してはおけませんね」
「セフェラン…!」

 あまりにも淡々としているセフェランに、俺はたまらず声を上げた。

「あなたは、この血をどうするつもりです?」

 セフェランの問いかけは、俺に対してじゃない。影のように壷に忍び寄ったフォルカに対してだ。
 感情のこもっていない視線が絡み合う。

「どんな形であれ、この薬は外に出してはいけない。一滴でも赦しません。彼らの血は、彼ら自身のものです」
「…………」

 喉が…痛い。
 堪らなく熱くこみ上げてくるものは、俺の奥深くに眠っていた、目覚めるはずのない類のものだ。
 俺の身体には合わない。壊れてしまう。
 灼かれるような痛みに耐えかねて喉を押さえて立ち上がると、俺は引き寄せられるように赤い光を帯びた壷を見た。

「鴉王? あなたは……」

 フォルカが俺から距離を取るが、セフェランは動かない。
 どうしてこんな場面で急に俺の唇から唄が零れ落ちたのかはわからなかった。
 まるで、干上がったままの涙の代わりのように。
 気が遠くなる……。どうして俺が謡ってるんだ……?
 血が出そうに痛んで苦しいのに、旋律は止まらなかった。
 ――眠れ。どうか、苦しみはなく。
 どうか、深く、深く……安らかに。
 俺の中にまで響くその呪歌が俺の意識を塗りつぶしそうだった。
 自覚もない。
 石の小部屋いっぱいに広がった呪歌が壷に吸い込まれて、赤かった光が静まり、優しい金色を取り戻して行く。
 そこまでが限界だった。

「あ…くッ」

 ごぼりと音を立てて俺の口から血が溢れる。
 俺に謡えるはずがないんだ。でもあの瞬間、溢れるように勝手に出てきた。
 それでも鴉の身体に耐えられるはずがない。鷺の唄に込められた魔力の凄まじさに耐えられなかった喉が、焼かれたように爛れていた。

「そうですか……。あなたの中に…いたのですね」

 誰がだ?
 またこみ上げた血が滴って、声も出ない。
 ただ壷に手を掛けて崩れるように抱きしめた俺の背中に、セフェランの優しい手が触れた。
 ………暖かい。まるで命そのもののように、壷はまだ暖かかった。
 本当に、鷺の血なのか? だとしたら、一体どれほどの鷺がここで………。

「血を飲んではいけませんよ。吐いてしまいますからね。あとから治療します。それより、彼らをこのまま眠らせてあげましょう」

 小さな子どもみたいに、いやいやと俺は首を振る。
 莫迦だな。俺は……。
 こんな形になって、もう誰も帰って来れないのに。
 あの森でニンゲンどもに殺された鷺は全てじゃなかった。死体の数が足りないって聞いて…だから、逃げられた者もいたんだと勝手に信じていた。
 俺は…本当に、莫迦だ…!
 セフェランはそんな俺に怒りもせずに、優しい気配で笑った。
 セフェランも、鷺だ……。鷺特有の、ただ透明な感情が……悲しみが、魔力の波動になって俺の中に染み込んで来る。
 叫びたい衝動に駆られた。
 どうして? こいつらが、なにをした…!?
 誰にも、なにもしていない。
 自然だけじゃない。俺たちも、ニンゲンたちも火を使うし、狩りをして森を傷つける。時には行き過ぎた傷を負わせる。
 鷺はその森の傷を癒すために謡い、どんなに傷つけられても、森を訪れる旅人を拒むことはなかった。
 それなのに………。

「さあ、鴉王……」

 魔法のように、セフェランの手が俺の手を壷から引き離す。
 フォルカがどうするつもりだったのかわからないが、もう壷を調べる気は失せたらしいな。先に石段を登り始めていた。

「この場所のことを、鷺王に知らせますか?」
「………」

 わからない。正直に俺は首を横に振った。
 同胞を、家族をあんな形で失った鷺王に、これ以上辛いことを知らせたくない。
 だが、俺が知ってしまった時点で、もうこのことを知られたのと同じだった。
 鷺王であるロライゼ様の力は別格だ。いくら読まれまいとしても心の壁なんてないも同然に全てを知られてしまう。
 本気で知らせたくないなら、俺が生きている限り一生、ロライゼ様に会わない以外方法はないし、仮にそうしたところでラフィエルまでは避けられない。
 ラフィエルの力もロライゼ様と同等で隠し事はできない上に、やっぱりリュシオンの兄貴だ。なにかあると踏んだら、いつもなら遠慮する場所でも絶対に覗かれる。
 もう……隠しようがないってことだった。

「王たる身であれば……どんなに辛くても、自ら弔いたいものかも知れませんね。ですが、彼らをここにこのまま置くことは私自身ができません」

 囁くように言うと、セフェランは片膝をついて辺りを埋めたさまざまな色の鷺の羽を何本か懐から出した手巾に包んで懐に入れる。

「鷺にとって形は重要ではありません。ですが、あなたには必要でしょう?」

 そう言って微笑む顔は、俺の父と母、どちらにも似て感じた。
 それから力の抜けた俺を支えて立たせると、一度だけ壷を振り返って古代語でなにか小さく囁き、石段に足を掛ける。

「鴉王、先に行きなさい」
「セフェラン、俺も」
「声を出してはいけません。行きなさい。あなたの魔力では炎の術符を使っても彼らに苦痛を与えるだけです」

 それは、事実だ。
 唇を噛んで項垂れた俺にもう一度微笑んで、セフェランが呪文を唱え始めた。
 女神の塔で一度、聴いた。あの時は全員が満身創痍で、セフェランはキルロイや巫女といっしょに回復の杖ばかり使っていたが、一度だけ女神アスタルテにこの光魔法を放ったんだ。
 クライディレド……世界を染め上げるように鮮烈な、女神がこの男に授けた光魔法だ。

「あ…!」

 見ていたかった。せめて、俺だけでも彼らの最期を。
 だが目を閉じても視界が白く染まり、堪らず顔を背けた俺の腕が引かれる。
 本当に、らしくない。フォルカが自分の背中に俺を隠すように立ったのが気配でわかった。

「なぜ…?」

 もう一度訊くと、相変わらず感情のなさそうな声で答える。

「仕事だ。主はあんたを気に入っている。ゲームの借りを返していないから、もし機会があれば守れと」
「おい…!」
「出血が多い。飲め」

 言うが早いか、素早く懐に手を突っ込んで出した特効薬を口に放り込まれ、「ついでのようにだが」と最後に付け足されて思い出した。
 ………そう言えば、この前の一戦で俺が一勝、勝ち越していたな。案外負けず嫌いなおっさんだ。
 一度口に入れたものを出すなんてさすがにできない。渋々と甘い特効薬を飲み込んで呆れてなにか言いかけたところで、いっそう光が強くなる。ちりちりと肌が痛んだ。
 恐ろしいほどの「正」の力だ。
 ここに…ティバーンがいなくて良かった。鷺のことがなくても、居心地が悪いなんてものじゃない……。
 俺も「負」の力が強い方なんだろうが、身体中の神経が焼き切れそうだ……!
 セフェランの放った強烈な光魔法は、辺りに漂っていたラグズたちの歪み切った魔力さえ打ち消し、浄化したようだった。

「鴉王、術符を」
「………」

 やがて地下から上がってきたセフェランに言われ、俺はなにも言わずに炎の術符を手渡した。
 光魔法と闇魔法以外は使えないと思ってたんだが、術符ならほかも使えるんだな。
 この大陸最強の魔力を誇る使い手の放つ炎だ。
 まるで鷺の魔力そのもののように鮮やかな金色を帯びた炎が燃えるはずのない鷺の羽に灯り、瞬く間に辺りを炎の海に変える。

「出ましょう」

 セフェランの言葉に俺を連れ出したフォルカに逆らって振り返った先で、音もなく小さな小屋が燃え上がっていた。
 炎の形が、まるで鳥のようだ……。
 それがまるで夜の空へ飛び立とうとする姿のようにも見えて、胸が痛む。
 俺の感傷にしか過ぎないよな。だって、あんたたちは空よりも森を愛していた。
 飛べなくなった鳥翼族の者は、俺たち鴉や鷹に限ってはだが、絶望で緩慢に死んで行く。
 それは若くして怪我や病に冒された者も、老いて翼が利かなくなった者も同じように。
 でも鷺の民は違っていた。飛べなくなっても森を愛し、仲間を愛し……やがて眠りにつく時も、安らかに森に還って行った。
 こんな…燃えて消えることなんてなかったのに。

「大丈夫ですよ。もう苦しみません」
「………」
「慰めではありません。真実です」

 言葉といっしょにそっと翼を撫でられて、俺は震える息をついた。
 こんなことをしやがった張本人は、もういない。……たしか、ティバーンが殺したと聞いた。
 あとはなりそこないの薬がここにあったことを知る者がいるのかどうか、なによりも作り方が漏れているのか、それが問題だ。

「フォルカ」
「俺は仕事の掛け持ちはせん」
「まだなにも言ってないだろ」
「丸わかりだ」

 クソ、可愛くないヤツだな!

「貴様……純粋なベオクじゃないな? ベオクにしちゃ鼻が利き過ぎるし、なによりも物騒過ぎる。親無し…の匂いでもない気がするが」

 なにを言われようが表情一つ変えないフォルカに苛立って本気で気配を探りにかかると、ようやく赤い目がこっちを向いた。
 殺気はない。だが、その手は腰のナイフに掛かっている。

「噂どおりの詮索好きだな。せっかくの寿命が惜しくないのか」
「はン、他人の『草』になってあちこち詮索することが生業のヤツに言われたくないね」

 もちろん、こいつの本業がそんな生易しいものじゃないことはわかっている。こいつの正体は、腕利きの暗殺者だ。
 俺も後ろ暗い界隈とは縁があるからな。……火消しの名は、知ってる。それがどんなに不吉で、忌まわしい呼び名であるかも。

「およしなさい。二人とも……安らかに眠ろうとする魂を見送る場ですよ」

 俺たちの間にある空気が張り詰めたものに変わる前に、穏やかだが有無を言わせないセフェランの制止が入る。
 確かにそうだ。つまらない言い合いをして良い場面じゃなかった。

「どこへ行く?」

 俺は反省して鮮やかな炎に向き直るが、フォルカはもう用は終ったとばかりに立ち去ろうとしてやがる。
 黒い背中を呼びとめても、もう振り向きもしなかった。

「どうぞ気をつけて」

 自分には関係ないと言わんばかりだ。まあ、事実そうなんだろうが。
 べつに冷たいだの気が利かないだの、つまらないことを言うつもりはないが……ただ、言い掛けた文句が途中で切られたのは面白くない。

「………相変わらず胡散臭いやつだ。神出鬼没だし」
「それも仕事でしょう。それに、神出鬼没なことには転移の粉も関係していると思いますよ」
「転移の粉? あいつ、そんなものを持ってるのか?」
「はい」

 少しずつ小さくなっていく炎を名残惜しく見守ってるところにさらりと言われて、俺は驚いてセフェランを振り返った。
 俺より少し高い位置にある顔を見ていて、ふとあることに思い当たって尋ねる。

「まさか、それはあんたが?」
「はい。フェール伯に頼まれましたので」
「頼まれたからってそんなものをあっさりと渡したのか?」
「はい。あれは体力と魔力を非常に消耗しますが、彼らなら使いこなせますから。あなたにも差し上げるのは構いませんが、恐らく使えませんよ」

 またなにも言わないうちに言われて、俺はつい自分の顔を抑えた。
 さっきはフォルカにも言われたし、もしかしたら俺はそんなに思ったことが顔に出てるのか気になったんだ。
 それとも、表情を取り繕うのがそんなに下手になったのか?

「べつに顔に書いてあるわけではありませんよ。ただ、あの粉は本当にラグズには使えないのです。ラグズの化身の力が魔力によるものだということは知っていますね?」
「……あぁ、まあそのぐらいはね」
「その化身の力を狂わせることになるからです」

 下火になった炎に照らされたセフェランは穏やかな表情だが、言われた内容は恐ろしいものだ。
 思わず強張った表情で見上げると、セフェランはもう一度笑って首を振った。俺の不安が伝わったらしい。

「なりそこないになったりするのとは、まったく違いますよ。ただ、体力を酷く消耗した上に化身できない状態が長く続くのでは、わざわざ使う意味はないでしょう?」
「………それでも、非常用にはなりそうだ。いくつか欲しいんだが」
「そうですか。では、また作ったら差し上げましょう。ただ、化身以外に魔力の使い方を知らない者では使いこなすのは容易ではないことを覚えておいてください。魔力の領域がわからないものが飛べば、そのまま帰ってこられない可能性もあります」

 それは恐ろしいな。少なくともティバーンには無理だ。
 「わかった」と頷くと、セフェランも微笑んで頷き、そっと俺の肩を抱いて消えていく炎に視線を戻した。

「………行くのですね?」

 なにもかも知っている。
 そんな穏やかな声に、俺はなにも答えなかった。
 ただ、終らせなくちゃならない。
 俺の中に残ったのは、その思いだけだ。

「せめて、傷を癒して行きなさい。さっきの特効薬では喉の傷しか癒えてないでしょう?」

 言われて、顔に血の気が上った。
 どこまで知って言ってるのかは知らないが、そんなことを指摘されればどうしても昨夜のことが頭を過ぎる。
 ………忘れたいのか、忘れたくないのか、自分でもわからない。本当に、おかしな話だ。

「こっちはなんともない。それに俺は、痛いのは平気なんだ」
「戦うなら、傷は癒しなさい。全力を尽くさなければ後悔するのではありませんか?」
「それは……」

 最後の炎が消える。
 暗闇の中、やっと俺は俯いた。
 目の前に立つセフェランの白い僧服さえ見えない。
 でも、俺だけだ。かつては鷺でも、今は魔道の使い手になったこの男には、きっと真昼と変わらないぐらいはっきりと俺の姿が見えていることだろう。
 だからじゃないが、どうしても俺は顔を上げることができなかった。

「目を閉じなさい」

 囁くような声音で言われ、思いのほかしっかりした手に目を塞がれて、優しい魔力に包まれる。
 セフェランが握る杖から、回復の魔力が俺に注ぎ込まれた。
 後ろからじくじくとずっと感じていた疼痛が和らいでいく。
 ほんの少しだが、眩暈もましになったようだった。
 そっとセフェランの手が離れて、また視界が穏やかな金色に包まれる。今度は俺の術符じゃない。セフェランが杖に灯した光魔法が光源だった。
 さすがだな。俺が半端に使った術符よりもしっかりとした光は心強い。

「あんたはどこに行くんだ? 帰るのか?」
「いいえ。帰りません。私も探したいものがあるのです」
「探したいもの?」
「はい。必要になるかも知れませんから」

 それ以上言わないってことは、それがはっきりなにか言えないのか、わからないのか、どっちかってことだな。
 まぁいい。俺には関係ないからな。

「わかった。その…傷を癒してくれたことは礼を言う」
「はい。……鴉王」

 さて。じゃあ、行くとするか。
 心を決めて翼を広げた俺を、もう一度セフェランが呼びとめる。

「なんだ?」

 セフェランはしばらく黙って俺を見つめた。
 本当に静かな、深い森そのもののような眸で。

「懐かしい呪歌でした。あの場で誰よりも謡いたかったけど、私には謡えなかった。……ありがとうございます」
「礼はいらない。自分でもなぜあんなことができたのかわからないからな」

 これは本当の話だ。俺は鷺の血は引いてるが、だからって呪歌を謡ったことはないし、謡えるはずもない。
 その証拠に、魔力で爛れた喉から血を流す羽目になった。
 昨夜も……。
 また意識がぼんやりと霞みかけて俺は目を瞬いた。
 昨夜? ティバーンにあんな真似をした以外になにかあったか?
 その沈黙をどう受け取ったのか、微笑んだセフェランがそっと俺の頬に手を添える。
 それから言った。いかにも年長者らしく、穏やかでいて耳を傾けずにはいられない真摯さのこもった声で。

「手を取ることを恐れるばかりではなにも始まりませんよ。淋しさに打ちのめされた者が伸ばされた手を恐れるのは当然のことです。そして、その手を望むことも」
「………なにを言ってるのかわからないな」

 いきなり、なにを言い出したんだ?
 片眉を上げて首を振ると、セフェランはそれ以上なにも言わずに微笑む。
 言いたいことがあるならはっきり言えばいいのに、わけがわからん。
 とりあえず、俺の用は終った。
 あの忌まわしい薬の隠し場所がほかにあるならそれも調べなくちゃならないし、これはティバーンにはとても任せられない。
 鴉の部下は元老院の跡取りや側近どもの動向を見晴らせていたし、表向きの仕事を少し休んででも俺が自分で動くしかないかも知れないな。
 もちろん、今回の騒動を無事に切り抜けられたらの話だが。
 俺が行く。俺が行かなくちゃならない。
 もう一度決意を新たにして、俺は羽ばたいた。
 癒されたのは後ろだけかと思ったら、翼もだな。そう言えば、セネリオに治してもらった指ももう痛まないし、腫れもない。ベオクの杖は本当に便利だ。
 視線を下ろすと、まだセフェランが俺を見上げていた。
 暗闇の中、セフェランが掲げる杖が煌々と金色に輝いている。
 ……夜の海を航行する船にとっての灯台ってのは、もしかしてこんな感じなのかも知れないな。
 星を読めるってのもあるらしいが、ベオクは灯台があるから、あの広大な海を迷わずに進むことができるんだそうだ。
 俺は……どうだろうな。
 行かなくちゃならないなら、たとえそこが永劫の暗闇でも、俺は飛ぶだろう。
 死ぬべきはずの場面で、俺は生かされた。
 ティバーンにだけじゃない。ガキのころから、俺のために誰かが犠牲になってきたんだ。それを知っているからこそ。
 やがてセフェランの使う光魔法の光も見えなくなり、本当の暗闇に包まれたが、自分でも不思議なほど俺は落ち着いていた。
 だが、そのまましばらく飛ぶうちに傷の熱が収まり、後ろの感覚がはっきりしてからのことだ。中からとろりとこぼれて乾きかけた血の上から下着を濡らしたものに、俺は一瞬焦った。
 いや、まさかぼんやりしていて粗相でもしたのかと思ったんだ。
 腹は下してないはずなんだがな……。

「あ」

 こんな場所だが手巾で拭くべきか、それとも水場を見つけるまで我慢するべきかしばらく焦ったが、思い出した。
 そうか。これはティバーンの………。
 正体に思い当たって、火であぶられたように全身が熱くなる。
 なんで忘れてたんだ? 俺がほとんど無理やり出させたようなものなのに。
 どんな方法を使ったとしても、勝ちは勝ちだ。
 だが、最後に見た傷ついたようなティバーンの顔が妙に焼きついてる。
 もともとはあいつがしようとしてたことなのに、勝手なヤツだ。
 奪うのは良くて、奪われるのは気に入らないのか?
 だから腹が立ったんだ。
 だから俺は……。

「ティバーン……」

 無意識に名前が零れ落ちた。不思議な想いが湧き起こる。
 なんだ……? また、気が遠くなって……それが化身の光のように、ゆっくりと俺を包み込む。
 蒼い光と…金の、光…。
 俺の持っているはずのない光の色を見ても、奇妙なほど俺は冷静だった。
 その光がかすかに反射している。
 目を凝らしてゆっくりと降りると、そこには鏡のように俺を映す川があった。ここはネブラ川……か?
 よっぽどぼんやりしていたらしいな。やっと静かなせせらぎの音が聞こえてきた。
 服も脱がないまま、誘われるように俺は水の中に降りた。爪先から、凍りつきそうなほど冷たい水が俺を包み込んでいく。
 水は危険だ。なにより、俺はほとんど泳げないのに、怖くはなかった。
 水は森を育むもの。そして、森が大地に与えるものだ。
 それに、もう水は俺を襲うことはできない。
 辺りに怪物の気配はなく、俺は岸辺に濡れた服の全てを脱ぎ捨ててもう一度冷たい水に潜った。
 ベオクなら数分もかからずに凍り付いて死んでしまう水温が、俺には心地良いほどだった。
 水の中でぼんやりと開いた目に、白く自分の手が浮かんでいた。……違う。全身だ。
 音を立てて水面に顔を出すと、もっと冷たいものが頬に触れる。
 いつの間にか雪が降り出していた。
 いよいよ、不思議だ。
 確かに冷たいのに、死にそうなほどじゃない。
 俺から立ち上る蒼と金が混じった光に、唇からこぼれた白い息が儚く消えた。
 この気持ちも、消えればいいのに。
 雪のように、この息のように……溶けて、消えてしまえば。
 そこまで考えて、初めて気がついた。
 消えるはずがない。だって、自分の中から生まれたものだろう?

「ティバーン?」

 待て…待てよ。俺は、どうしたんだ?
 遠くなっていく意識を必死に繋ぎとめて、濡れたままの上着を羽織ると、もう一度俺は深い息をついた。
 おかしいだろ。なにを考えてる?
 めまいがしそうな勢いでかぶりを振って、今度は水で濡らした手巾で滲んでくるティバーンの名残を強く拭く。
 指でかき出すべきかと思ったが、妙なもんだ。冷静になると怖くてとてもできそうにない。
 痛みには慣れてるつもりだが、記憶に残る痛みは今まで受けたどんなものとも違った。内側から引き裂かれるってのはさすがにきつかったからな。
 なにも出なくなるまで続けるつもりだったんだが、その前にそこが擦り切れそうな気がして諦める。
 それより、寒い。
 こんな時に川に飛び込んで自分を洗濯か? しっかりしろ!
 ここにティバーンがいなくてよかった。あいつがいたらきっと怒って飛んで来て、無理やり抱きしめてくるな。
 自分までずぶ濡れになるだろうに、そんなこと、ちっとも気にしないで……。
 そこまで考えて笑いかけて、俺はふと思いついた。
 こんなことを考えるのは、俺がそうされることを望んでるってことじゃないのか?
 そんなことを望むなんて、雛でもあるまいし。理由なんて一つしかないだろ。

   『ネサラ』

 若々しくて低い、力強い声を思い出す。
 時には叱って、時には呆れて、でも最後はいつも優しく笑って俺を呼んだ。
 今、ここで呼ばれたいなんて、そんなこと……―――クソッ!
 凍りつきそうに冷たくて、カチカチと歯の根が合わずに鳴る唇を押さえて俯く。
 参った。俺は、たぶん……いや、きっと。

「ティバーンが好きなんだ……」

 白く吐息といっしょにこぼれた言葉には、俺自身が一番驚いた。
 なんとなく、ずっと考えないようにしてたのに、気がついちまった。
 もう後戻りはできない。気がつかなかったころにはきっと、戻れないのに。
 見上げた空からは俺の都合もお構いなしに雪が降ってくる。
 冷たい地面に立っているはずなのに、落ちてくる雪を見上げていたら、なんだか自分が空に昇っていくような気がした。
 意識が鮮明になってすぐに、俺の身体から立ち上っていた金色の光が消えて、見慣れた蒼い光だけが揺れる。
 それを待っていたかのように、清らかだったはずの川の水の気配が変わった。
 歪に揺れる…魔力の描く、奇妙な螺旋――。
 ただ降ってくる無数の雪がまるでセフェランの炎で逝った鷺たちの羽のようで、ゆっくり足元に忍び寄る水の気配を感じても、俺はその場を動こうとは思わなかった。




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